明日の空は何色だ

作家を目指し幾星霜。物書きの雑記ブログ。

ZOC2021ツアー@名古屋のごくごく個人的な感想

 ZOCのライブは初めてだった。というか、アイドルのライブは初めてだった。(ショッピングモールとかでは見たことあったけど)楽器のセッティングされていないステージが私にとっては新しく、またここにどんな光が弾けるのだろうと楽しみでもあった。

 

 続々と増えていくお客さん。気持ちを上げてくSE。ついに「ZOC序曲」がかかって、いよいよだと心臓が高鳴る。爆音の中、赤、オレンジ、深い青。鮮やかな色に照らされて、暗闇から浮かぶメンバーたち。十代の頃に戻った気持ちでステージを見上げた。全員それぞれの色に輝いていて、だけれどもZOCという名の元に集っている団結感。1人1人の良さをただただ噛みしめ、ライブはあっという間に終わってしまった。

 

以下、オタクが早口で持論を語る場面を想像しながらお読みください。

 

 長い髪が顔にかかっても貞子にならずお美しいのはカレン様だけだと思うんだよね。ていうか、髪の毛や紅という美の概念はカレン様のために存在しているのでは?もしくは、カレン様の生誕を何千年も前に祝して誕生したのかもしれない。場所の関係上、紅のクオリアで真ん中に立つときは腕しか見えなかったが、指先の美しいこと……国宝……。壁に映った影も、まるで二次元のように完成されていた。赤いライトが本当にお似合いで、白目と眼光がよくマッチしていた。あと何度も目が合った(腕組み)。

 

 大森さんとも目が合った絶対絶対絶対絶対私とコンタクトした。絶対大森靖子。これ大森オタの間では共通認識だと思うのであえて言うことでもないんですけど、あらわな上肢の美しいこと……。初っ端から肩の紐がずれている場面があり、あああおおあああああいやあああとなった。真っ白なライトで大森さんは更に白く輝き、筋や丸みの陰影が浮かび上がるのが絵画のよう(自分で書いててきもい)。いやでも、「絵画のよう」って表現個人的にはしっくりくる。単純に「美しい」とか言うのははばかられる。神聖である。補足しておくが、私は絵画に心を洗われる人間だ。

 

 まろたん……。「巫まろやべぇ」と語彙力を喪失した。激しく踊っているのに、髪の毛が顔面をよけている。いつ何時でも美しい顔(かんばせ)を拝むことができた。あと目が合った何度も合った(しつこい)。歌の抑揚とか、息の出し方とか、いや素人の私などが歌い方についていうのもおこがましいんだけど、歌(ないし大森さんの楽曲)が本当に好きで、こだわって、たっくさん練習してるんだなというのを目の当たりにしてカッコよさに打ちひしがれた。MCの時も歌も踊りも頼もしくて、それは動画で見ていても感じるけど、生で見るとより深く刻みつけられた。あとマロンクリームな色気という新しいオトナ。巫秘宝館!!!

 

 ポジション的ににっちやんがあんまり見えなかったんだけど、逆に存在感すごいなって思った。うちわ上げてる人とかオレンジのサイリウムに手を振ってるのがかわいかった。お目目大きし、表情がめちゃよく分かる。安定のMCというのは知ってたけど生で聞いてもそれは変わらなかったから、にっちやんがしゃべるのを自然に待っていた。髪を衣装と同じくらい緑に染めたいなというお話に一番びっくりしたかもしれない。あとカンニングのすゝめ……メガネフレームで目線の動きが目立たないという洞察力強すぎる。あと生のすこで即刻笑顔になれた。「眼球にGO♡」のセリフで「味仙」出てきて嬉しかったけど、「やっぱりすこなのはり子のママ!」が一番好き。り子ママにずっと媚び売ってるのも可愛かった。

 

 り子ちゃん魔女。手から炎出してもあんまり驚かないと思う。シルクドソレイユとか見に行ったことあるけど、身体から「腕」とか「肩」とか「胴」とかいう概念が消失していると感じた瞬間は初めてだった。筋肉の全てがひとつながりに動いていて、なんというか道教みを感じた(読み流してくれ)。MCでもメンバーが言ってたけど、こんなに素晴らしく、それぞれの曲の魅力を最大限引き出す振付をつけてくださってありがとうございます……。あと、そろえるというよりも個人がやりやすい動きで、というのが本当に眼福だった。踊りでそれぞれのカラーを感じることができて、歌だけで感じ取るよりも深く入り込めた。

 

 のどかちゃんすごいなあ。学業との並行で、こんなに難しいふりをこなして、歌も感情がこもっていた。こなす、というのは言葉のあやで、むしろ自分のものにしているなと思った。おこがましいが。他のメンバーと違って、言葉多く語るというよりも、純な言葉で表現したくなる。時折緊張した顔をのぞかせるので、守ってやりてえ。強い、という言葉も似合うんだけど、大きい、という言葉もすごく似合う。底知れなさ。でも、深い、という言葉ではないんだよなあ。私の言語感覚などどうでもいいが、のどかという名前が心地よく似合う。でも、私はまだこの子のこと全然知らないんだろうなとも思った。もっと見ていたい。

 

「family name」 泣いた……。リリースからずっと支えられてきた曲だけど、それはメンバーたちもそうなんだろうなと勝手に思った。「①④才」の不安定な感情を否定もせず肯定もせず、「あきらめないよ」と歌い飛ばす笑顔。ふり、というか、うた、というか、笑顔が目に焼き付いた。私たちは、闇も光もしっている。という強さだった。この歌があるから、前に進んでいける。この歌を歌い重ねて、もっともっと強くなれる。どこかで折れたとしても、上に上に伸びていける導のような歌だと感じた。動画見てても、インタビュー聞いてても思ってたことだけど、聞くだけの私は自分の視点に偏ってしまう。現場に行ったからこそ、メンバーの視点を思うに至り、「体感」できたことが嬉しい。

 セットリスト的に、「SHINEMAGIC」→「①④才」とダークな緊張感の続きで聞いたから、なおさら感じたんだろう。

 彼女たちが本当にそう思っていたかは分からない。現時点では確かに私の妄想。それでも、「闇も光も知っている」という強さの概念が、私にとっては本当に大事な気づきだった。

 

以下、自分語りです。

 

 突然だが、私はうつ病で休職している。

 不意に「私は人より賢く生まれてよかったな。賢くなかったらもっとひどくなってただろうな」とか思い浮かんでしまう。それが事実かどうかというより、別にある人より賢こかろうがある人より鬱の症状が軽かろうが私自身の幸せとは何の関係もない。本来。自分の絶対的価値なんて証明しようがないから、人と比べようとする。それで安心する。別に「それで生きるのでは本質的でない!」と言いたいんじゃなく、私は本来的にそれで満たされないのでどんどん虚しくなっていくんだろうなと思った。それで空洞化してしまったのが今なんだろう。自分に“価値”がないと不安だから、手近な方法で確かめようとする。

 ZOCを1時間半くらい浴びて、肯定とか否定という切り分けで自分を満たしたり、「早く職場復帰しなきゃ!!!」「別に不幸なわけじゃないのに鬱だなんて罰が当たる!!!」とか思ったりしている自分を卑小に感じるようになった。例えるなら女媧に出会った妲己の状態だ。(藤崎竜封神演義』参照)それまで「私化粧上手になったじゃ~ん!」とか「毎日お風呂入れたあ!偉い!」とか毎日思うようにしていたが、別にいらない。私は生きているだけで偉い。

 まあ生きてるだけで偉いとかいうのは賞味期限があるから、こうして文章を書くんだけどね。私ごときが生きてるだけじゃ偉いと思えない。ある意味自分を特別だと思っているってことだろ?分かってんだよ。でも私は特別だし。

 これが、流星ヘブンの「不幸に守られた」状態なんだろうな。大森さんとまろたんとり子ちゃん見ていて思った。

 

a.不幸に守られた 君を引きずり出したい

 大森靖子「流星ヘブン」より)

 

 自分が特別じゃなければ、そう、“価値”がなければ存在している意味がない。そう思うから、努力で手に入れられる「生きてるだけじゃないです余分にこんなことしてるんです」に自分を追い込み続けていた方が精神的に安心なんだろうね。

 そんな生き方続けてて、限界がこのタイミングできたんだろう。

 浅慮で愚かでプライドが高くても、深慮だし賢いし謙虚。既存の言葉に、その複層を表す言葉がないから、そう並べるしかない。浅慮も事実。深慮も事実。だからどうとかはない。

 

そのままで素敵な君なんだ

 (ZOC「A INNOCENCE」より)

 

そういうことか。帰り道の歩道橋で思った。

  

 

 マイノリティを救いたい、と思っていた。どんな属性の人でも優しくしたいし、皆が救われる機会を得られるような、仕組みを作りたいと思っていた。

 でも自分を救済できていない、幸せにできていない時点で、そんなこと叶うはずがなかった。大森さんは「誰しも真摯に生きていけば、生きていくほど美しくなるはず」と言っていた。ライブでも、テレビ番組でも。そしてそれを体現している。だから説得力が生まれる。ステージの上で跳躍し、誰の心にも届けようと動く身体は美しかった。言霊は信じているが、同時に言葉は無力だとも思う。存在そのものが、言葉の重さを後押す。言葉は、悲しいくらい人によって読み取りを違えさせる。でも目で見て分かるものはそれそのものだ。信号が言葉で書いていないことは、その一端を表していると思う。

 私はジーザスでも気取っていたのだろうか。

 それこそ、アイドルのように上から「動物園」(※1)のように闇に浮かぶオタクの顔を見渡せる存在でないと、不特定多数の人間に「救済」を与えることはできない。オタクは「光」を見に行く。ゆえにアイドルという1点のみを注視している。構造的に、救済を「与えられる」側にならざるをえない。(※2)

 だから、休職中で復帰したい気持ちのある一般女性にはマイノリティを救えない。ステージの側になければ、救済する側には立てない。

 救済する側に立ちたいと、無闇に思うことは無謀だと思うに至った。

 まずは自分を救済したり、自分の視界を幸福で満たす術を会得したりしなくてはならない。ほんとにジーザスになりたいならね。私は物語を書く。だから、インディーズ時代に大森さんがライブをやり「狂って」いたように、小説をウェブに上げまくるとか。文章を読んでもらえるのは私の幸せ。

 狂って狂って咲いてやる

 (ZOC「DON'T TRUST TEENAGEER」より)

前に、

狂っても狂ってもちゃんとやれる

 大森靖子「魔法が使えないなら」より)

ようになりたい。

 

 大森さんの包み込むような優しさと、鋼の哲学が同居する強さ。カレンたんの真っ直ぐな瞳と流れるような指先のはざまに現れるかんわいい笑顔。にっちやんのMCの安心感とここぞというときの高音。まろたんのアイドルエリート&貪欲さスパークパフォーマンス。り子ちゃんの魔女感とアイドルの定義を爽快に破壊してくる舞踊(と「おちりふいて」案件)。のどかちゃんが緊張の間に見せる、純粋で揺るがない存在の意志。

 

 ZOCのライブに行って、本当に自分を救済するエネルギーを得た。毎週メンタルクリニックに通院しているが、必ずZOCを聞いている。

やり直さない消さなくていいそのままで素敵な君なんだ

  (ZOC「A INNOCENCE」より)

 

 数々の歌詞に、言葉を押されながら。

 

 

脚注 

(※1)にっちやんのMCより。「ステージに立った瞬間オタクたちが動物園のように見えて笑いをこらえた」と言っていた。流石の感性に脱帽。

(※2)大森さんがMCで言っていたが、オタクの顔を見てライブすると元気をもらえるというのはまた別として。ライブの場において、オタクは群体として存在する。異論は認める。