明日の空は何色だ

作家を目指し幾星霜。物書きの雑記ブログ。

低気圧でも散歩

私が住んでいる地方にも、梅雨入りが発表された。

今日は強い風雨と寒さで、なかなか体調が悪かった。昼食後は寝ていたのだが、じっとしていると嫌なことを思い出したり、考えたりしてよくない。こんな時は休むに限ると思っていたが、動いた方がいいなと思い散歩に出た。

 

4000歩しか歩いていない。歩数に応じてポイントが入り、WAON楽天のポイントにかえられるアプリを入れているのだが、4000歩程度だとアイコンのペンギンに煽られる。でも、やっぱり外に出た方が良かった。マイナスな思考がすっきりする。

 

ただ、当たり前だが、体は疲れる。目蓋が痙攣してしまって気持ちわるかった。体力をつけるのには時間がかかるなと再認識する。1年も寝ていた体力って、どんだけで取り戻せるのだろう。行きたいイベント、旅行、今の体力じゃ行けない。疲れすぎて、帰る頃にはスマホかクレジットカードをなくしている自信がある。

 

うつ病は改善傾向にあるので、なんとか散歩を続けていい方向にもっていきたい。本格的な夏が来たら散歩も辛くなるだろうが、いい未来に向けて頑張りたい。頑張りたいと思えていることが、つい半年前の自分には微塵もなかったことなので嬉しい。

 

ペットも飼ったことだし、しばらくは健康を生活の中心におきたい。

私のベタちゃん

ベタを飼い始めた。

以前記事に書いたベタではなく、トラディショナル(”ベタ”といったらコレという種類)の青い子だ。瑠璃色からとってるりちゃん(オスだけど)と名付けた。胸びれが赤いのがワンポイント。泳ぐたび体にグラデーションが走って綺麗だ。

水槽に入れて2時間くらいはフィルターの上で休んでいたが、慣れてきたのかひらひら泳ぐようになった。近寄るとこっちを見てくる。今日飼い始めたので自意識過剰かもしれないが、かわいい。

名前をつけて、呼んでみると、とても愛着がわく。新しく友達ができたみたいな気持ち。

 

水槽やフィルターなど、必要最低限のものも買って、占めて5000円程度。こんなに手軽に命を手元におけるのかと少し怖くなる。ホームセンターのペットコーナーで買ったのだが、そこではセキセイインコのヒナやうさぎ、はやりのメダカなど、様々な生き物が売っていた。お迎えされることがない子たちはどうなってしまうのだろうと思う。フランスで犬などを販売することが禁止されたというが、命を売り・買う責任の重さを感じる。

同時に、日々食べる肉や魚も同じ命だと思うに至る。

人間は確かに、食物連鎖の頂点に立っている。環境を変え、動物の遺伝子を操って人間社会により適した種を生み出す。その恩恵を受け、今日も私は生きている。罪深いような気もするが、そういって生き延びてきた種なので今更何を思おうと、今ここにいる自分が全ての答えなので、懺悔したって虚しい。

 

るりちゃんが、私のところに来てよかったと思えるように頑張らねば。初めてなのでうまくいかないかもしれないけど、安らかに長生きしてほしい。

今は動画も色々出ているし、記事もたくさんあるし、勉強しながらやっていこう。

よろしくね。

こりずに夢の話を

連日の散歩により膝が痛くなり、今日は散歩をお休みした。

ので、代わりにフラフープをやった。水が入っているフラフープで、小学校低学年のときに買ってもらったやつ。

結構楽しくて、テレビを見ながら1時間くらいは平気で回せる。でも水入りなだけあって、1番フープがあたる骨盤の上が痛くなってしまった。背中も張っている気がして、筋肉痛が予想される。

 

今日は夢に出てきた友人から連絡が入って驚いた。付き合いは長くなく、連絡を取り合うという仲ではないのでなおのこと。

相変わらずだが悪夢を見る。2本立てとかで見て、心が休まらない。うつ病の症状なのか、薬の作用なのか。その場にいる嫌われるとか、私だけ予告のないテストが始まるとか、学校が舞台の夢ばかりだ。ブログでも、何度か書いている。本当に、いい加減にしてほしい。夢の治療をしてくれるところはないものか。

 

夢は、無意識下へ押し殺している自分が現れる場だと聞いたことがある。学校にいたころの自分を癒せということ?生兵法は大怪我の基で、ちょっと聞きかじったことから考えすぎるのは危険だ。大人しく先生に相談するのがよさそうだ。

でも、夢の相談までしていいのか……?と躊躇してしまう。お金払って行ってるのに。そういう、人の目を気にしてできないこと・人から見たら奇異に映るかもしれないからやらない方を選択することが多い人生だ。そんなことをして自分を抑圧するから病気になったんだと思う。もちろん他者の目を気にすることが悪いという話ではなく、何事も度をすぎるとよくないという程度の問題だ。白か黒かの人間(うつ病になりやすいタイプ)なので、極端になってしまう。そして他者と疎遠になり、どうせ分かってもらえないだろう……と伝えてもいないのに勝手に内にこもる。

まあそれが、小説を書く原動力になって、小説ができると自分も嬉しいので、私システムとして確立されてはいるんですが。

かといって、病気になるのはちょっと違うよね。もうちょっと上手に、バランスとりたいよね。

 

まだまだ、自分を社会で実践する方法が分からない。四半世紀生きてきても、未熟なまんまだ。まあそんなもんか。

 

明日に備えて、よく寝ましょう。

フリックでブログ

初めて、スマホでブログを書く。

当たり前だが、太字や引用の処理など、パッと見でできることが少ない。もしかしたらやる方法があるのかもしれないが、個人的にはパソコンの方が楽だ。

 

そもそも、ストロークの長い文章を書く自分にとっては、キーボードで打つことが呼吸に合う。

私の好きな歌手や詩人はスマホで物を書くらしい。同世代でも、卒論をスマホで書く人がいると聞いて驚いた。

 

慣れの問題もあると思う。

私が初めて自分のデジタルデバイスを持ったのは、高校生だ。周りがほぼスマホの中、ガラケーだった。かつ、自室にスマホを持ち込むことが許されてなかった。

小説なんかを書くとき、手書きは思考スピードに比べて遅くてわずらわしいと思っていた。ガラケーとはいえ、手書きよりは早いだろう。

そこで使ったのが、iPod Touchのメモ帳である。

日本語入力モードだと、「」の入力に二手間かかる。しかしキーボードだとひと手間で入力でき、なおかつ「かかる」など同じ語が2回続く場合でも、スムーズに入力することができる。

そういった事情で、フリック入力より先にブラインドタッチを覚えた。だからこそ、自分の脳とキーボードの方が直結している気がして、今でも長い文章を書くときは必ずパソコンを使う。

 

また、機種の問題もあると思う。

私はAndroidユーザーだが、iPhoneを使っている人の画面を見ると、素早い操作性が目を引く。文字の入力も、コンマ数秒であろうが、iPhoneの方がスムーズだ。スクロールなんかも早くて、見ていて憧れる。

この煩わしさが、何十万字に及ぶ文章を書くときはストレスになると思う。今もかなりやりにくい。慣れてしまえばいいのかもしれないが、漢字変換予測も少ないので、自分の文章には合わない気がする。

 

思い出のiPodだが、生産を終了するらしい。なんだか寂しい気もするが、私も音楽はもっぱらスマホで聞く。手持ちのiPodも1か月くらい充電していない。

もしiPodが故障してしまったら、どこでも修理してもらえないor高い修理費がかかるということになっていくのだろうか。スマホを持っていない時分、常に持ち歩いて写真や録音に使った。勉強するときも常に一緒だったし、何より書き溜めてきた文章が残っているし、愛着は強い。パソコンに並んで相棒のような存在だ。

大切にしなければ。さっそく今夜、充電しよう。

ベタと夏物

今日も今日とて小説を書き、漫画を読み、散歩に行く。

 

ベタ(熱帯魚)を飼いたいなと、ここ1年くらい思っている。動画もたくさん見て、予習をした。ベタは品種改良がさかんで、たくさんの種類がいる。その中から飼えそうな種類にも検討をつけて、いざ!って時に失神したりヘルペスで顔中ブツブツになったりで、動物飼ってる場合じゃねえとなったのだった。

生活に余裕ができてきたので、近所の熱帯魚ショップに行ってみた。

綺麗なベタがいた。検討をつけていた種類ではなかったが、近寄ってきてかわいかったし、10秒間くらい見つめ合ってしまった。青がいいなと思っていたが、赤い子だった。でも、引き込まれるような深い色に見とれてしまった。

それでも、きちんと飼えるかしらという不安もあり、お迎えは見送った。こんなこと言ってたら一生飼えないけど……。やれるうちにやっておくのが吉だ。もう1つのペットショップにいってから、決めようと思う。

 

今週のお題「夏物出し」だが、3月に引っ越しをしたこともあり、随分前からだしている。というか、セーターやもこもこのワンピースなどといった厚めの衣類以外は基本的に普段使う引き出しに入れているので、冬が来ない限り衣替えをしなさそうだ。

春と秋は、基本的に夏物+上着で過ごす。春物と秋物って、買う隙がない。ためらっているうちに夏と冬が来てしまう。あまり外出をするタイプでもない。よって、1年のほとんどを夏物で過ごしていることになる。

そのためか、夏になると服がほしくなる。冬物の手持ちの方が、どう考えても少ないのに。去年はワンピースを2つも買った(どっちも青)。引っ越しのとき服のつめこみに苦労したので、今年は服を買うのをよそうと思っている。楽しいけど……。そのたび自分がアップデートされてくのがいい。古いのを捨てるなり売るなりすればいいのだが、なかなか踏み切れず、部屋着がひたすら増えていく。

 

去年買ったワンピースはすごく気に入っていて、今年も着るのが楽しみだ。気軽に外出できるくらい、体力をつけておきたい。

夢の振り返り

物価上昇、でも賃金は上がる見込みなし、経済停滞、文化の衰退……など、朝から気の滅入る情報ばっかりだ。

賢い人だけが、特定の知識を得ている人だけが未来の見通しを持てる、生活水準を保てるような社会じゃ出生率なんて増えるわけがなく、子供を持ちたいという友達の方が少数派だ(90年代後半生まれの世代)。

 

かく言う私も、再発確率の高い病気に絶賛罹患中であるし、とにかく世知辛いとしか思えない世界だし、子供を持つというというのは現実的な発想じゃないなと思っている。

というか、自分の子供とか何をおいても可愛いに違いない至高の存在を、後ろ向き行進曲が鳴り響き続ける国で育みたくない。なんなら自分のところに生まれてくるのも可哀想だと思う。裕福な国の、裕福なお家で、メンタルの安定した温かい人たちに囲まれていてほしい。

こうして文字化してみると極端な発想だなと思えてくるが、要するに、自分の相手で精一杯なのに、結婚して他者と人生を共有すること、はては新たな人生を抱えることは難しいですよねという思考だ。

 

今日子供ができた夢を見たので、こんなことを考えるに至った。

突然、お腹に子供がいるよと宣告された。嬉しさも少しあったが、不安が9割だった。夢で良かったなと思った。

その他にも、戦地で兵士として戦う自分が、あと何時間で死ぬか表示されるモニターを見せられる夢を見た。悪夢は前より減ったと思うが、週7日が週5日になっただけでしっかりめに見ている。毎日よりマシだが、辛いものは辛い。病気なので仕方ないが……。

 

わざわざ嫌な情報を見にいったり、悲観的になったり、PMSかもしれないがよろしくない。こういうときはチャージマン研やらボーボボやらを見て手放しに笑うのがよいのだ。

小説も進めたいが、自分のご機嫌とりも大事にしたい。

怪談語り

木曜日から始めた散歩が続いている。

なかなかに疲れるが、スマホに入れた歩数計が距離や消費カロリーなんかを見える化してくれて小さな達成感もある。「おめでとうございます。目標達成です」と褒めてもくれるので、うれしい。GoogleのFitというアプリ。

 

曜日など関係のない生活を送っているが、土日は好きだ。休んでいることの罪悪感が低くなるから。病気なんだから休息は必要、と割り切れるようになったものの、まだ心には残っている。うつ病あるあるだと思う。

散歩をしていても、町がのんびりしているような感じがする。

 

夕方に散歩をするのだが、前からやってきた人間が、未来の自分だったらどうしよう、というへんな不安に駆られた。そんなわけないと分かっていながら、そんなことが起こってしまうような感じがして、どこかで期待すらしていた。

毎日外に出て、川筋を歩いていたら、いつか妙なものに出会えるかも。オカルトや怪談が好きなので、おっかなびっくり望んでしまう。実際起こったらきっとトラウマになるんだろうけど……。

 

私が小学生の頃は、空前の「怪談レストランシリーズ」ブームだった。高校生の時にアニメ化されたから、その後もブームは続いていたのかもしれない。私も2日に1冊くらいのペースで読んでいた。

 

www.doshinsha.co.jp

 

「怪談レストラン」は、「○○レストラン」(○○には火の玉やあの世など、怪奇にまつわる名前が入る)というテーマに沿い、メニューという形で短い怪談がいくつかのせられている。コラムもあって、金縛りのときにどんなものを見てしまうかとか、どんな夢が良くないしらせとか、ためになる(?)ことが書いてあった。挿絵にはユーモアもあって、それも楽しみのひとつだった。

私がとりわけ好きだったのは「これ、ほんとにあった話だよ」が書き出しの話だ。あの世から蘇った老人の話、あやかしと懇意になった人の話。世の中には、こんな小説みたいな話が本当にあるんだ!とワクワクした。

しかし、私はシリーズを読破することなく読むのをやめてしまう。

『悪夢レストラン』を読んだあと、幽霊が迫ってくるという悪夢を本当に見てしまったからだ。今思うとベタな幽霊の姿であったが、当時の自分にはあまりに怖いことだったので、鮮明に覚えている。

このことを保健室の先生に話したら、「本を読むのをやめた方がいい」と言われて、私もその通りだと思った。

 

しかし大学生になって、「怪談レストラン」の進化版みたいな本を読むことになる。編者の松谷みよ子さんが集めた奇怪な話が、これもまた「あの世」などといったテーマごとに収められているシリーズだ。この本が民俗学を扱った棚に置いてあり、その分野が好きな私は面白い本を物色している最中、思わず手に取った。

 

トラウマになって遠ざけた怪談だが、興味の種はしっかり根付いており、それが民俗学的な興味と共に芽吹いた感じだ。

 

個人的に、怪談は死者の話をしているようで、どこまでも生きている私たちの話をしていると思う。怪異を見るのは生きた人間だし、解釈をするのもこの世の都合に沿う。また、死者が現れるのは生に未練があるため=生きてきた記録の不備を清算するためだと解釈している。そこにたしかに、感情をもって生きた人がいたと、死者は語るのだ。

だからこそ、とても生々しい話に聞こえるし、純度の高い悲しみの声が聞こえる。

 

怪談を語るところに怪異が訪れる、というのはよく言う話で、実際そういった場に遭遇したこともある。またトラウマになるのかもしれないが、実話怪談ブームもあって、供給にはこと欠かない。

 

怪異はいつ、私のもとを訪れる、もとい訪れてしまうのだろうか……。