明日の空は何色だ

作家を目指し幾星霜。物書きの雑記ブログ。

近くに川がある。自然の観察が好きなので、散歩コースにしている。

 

上から鯉がよく見えるのだが、餌をやる人がいるのか、橋の下にたむろしている。何をもって人の気配を感知しているのか分からないが、近寄ると口を開けて群がってくる。今日はいつもより数が多く、心なしか普段より必死だった。流れてくる泡や草を我さきに誤食していた。鯉たちの間で何があったのだろう。雑食らしく、食べるものには困らなさそうなのに。

 

群がる鯉といえば、福岡県の宗像大社の鯉は圧巻だった。池に鯉が放たれており、鯉のえさが販売されているのだが、池の岸に近寄ると、ものすごい勢いで群がってくる。鯉が鯉の上に乗りあげ、体がほぼ水から出る。生きた魚類が水から出たときの、うろこの生々しさというのはうろこが大きいほどくるものがあって、餌をなるべく遠くにばらまいてすぐその場を去った。

世界遺産に登録されて何年か経っているので、鯉の環境も整備されているかもしれない。今はどんな風なのかしらないが、強烈な鯉体験をした神社だった。

 

そういえば、鯉が爆食する昔話があった。

池に立派な鯉を飼う旅館がある。その旅館は夜の内に用意した握り飯が朝になるとなくなっている現象に頭を悩ませていた。従業員の仕業では、と見張りをしたところ、犯人が鯉だったという話だ。

他にも、鯉にまつわる話はお供えものなど食が絡んでいたような気がする。

昔から、食べることと強く関係した魚だったんだろう。逆に人は鯉を食べていたそうだし。

 

そんなに、鯉は食べたくないなあと思う。食べろと言われたら食べるけど……。

私は物書きです

プロフィールにもあるが、私は物語を書く人間だ。

 

きっかけは、幼少時の引っ越しだと思う。初孫としてもてはやされ、言葉を覚えた土地から離れ、環境が変わってなんだかしょんぼりしていたらしい。幼い頃ながら、アパートから見える景色が灰色だったのを覚えている。

 

それで多分、自分の中で大きく欠けてしまったものを埋めるために、色んな空想をするようになった。といっても自発的に始めたというか、自動的にそうなっていたんだと思う。レンタルしているビデオに一覧がたくさん載っている冊子みたいなのが家にはあって、パッケージやカットの写真からどんな物語かを想像するのも好きだった。

 

それが癖になってしまい、字を覚えてからはおえかきと共に物語を作るようになった。し、いつしか空想の余地がある物語を好きになった。その両輪で、授業中にもてあます時間に、ある物語を考えるようになった。

 

小学五年生で始めたそれは、大学四年生が終わる3月にようやく完結を迎えた。

 

頭に浮かんだ映像を書き起こすタイプの自分にとって、字に起こす作業が1番疲れる。

個人的に、物語を書くためのステップ(ファンタジー)として、

物語の種がやってくる→連鎖的にできる設定から文化、時代などをなんとなく決める→登場人物をそろえながらリアルな文化的事象を調査する→世界ができあがり、物語の設定がそろってくる→その間に浮かんできた映像を文字に起こしている→清書として、一貫した物語に整える。そのためにプロットを書いたり設定を見返したりしてるうちに矛盾点が見つかって、既に書いたものをボツにして書き直す、をひたすら繰り返す

 

これらのうち、太字で書いた部分の作業が楽しく、それはもうどんな労力も睡眠の不足も惜しまないくらいだ。完結までに時間がかかったのは、永遠に設定をこねくりまわし、そのうちに自分の趣味嗜好が何度もかわったため。最初は2国間の争いを描いたものだったはずが、いつしか地母と神とうまくいかない人生を送る登場人物たちの物語になっていた。

 

重い腰をあげて清書を始めたのは、就活がきっかけだった、嫌というほど自分の人生と向き合い、売り手市場なのに1社しか受からず、多分物語を書ききれないとヤバいことになるなと思ったからだ。火がついたような衝動と、就活での経験をファンタジーに置き換えるところから始まり、あとはもうひたすら書いた。卒論の期間は休んで、あとは人と遊びに行く間もなく書いていた。

 

うつ病になってから、この物語にとても支えられた。なんなら読みながら泣いた。「書ききれないとヤバいことになるな」という直感はあながち間違いではなかった。

 

今は続きの物語と別の新しい物語、なんとなく書いている小説があるので、この物語への愛着が重すぎてはいけないと思っている。

でもやっぱめっちゃ好きなんだよな……。物書きあるあるで、処女作にその後書く作品のテーマは全て詰め込まれているというし。

 

そして、さんざん書いてきた「物語」というのが以下です。

 

「そしてまた月は満ちる」

http:// https://ncode.syosetu.com/n6136gr/

 

遅すぎる自己紹介を兼ねた、宣伝でした。

通院

今日は3週間ぶりの病院だった。

ついこの前まで毎週通っていたので、間が空きすぎて逆に緊張してしまう。薬が身体になじんでいくはやさを考えるとたしかに、3週間くらい見た方がいいと納得している。でも朝からそわそわして、とるものも手につかない。

 

それでもまあ行ってしまえばこちらのもので、経過は良好とのこと。毎日散歩をするという次のステップを提示され、帰りはさっそく歩いた。いつもバスで通っているが、無理な距離ではない。

中学の通学路を歩き、高校の通学路を歩き、ノスタルジイと知人に遭遇するのではというビビりの中で歩いた。好きだった桜の老木があとかたもなくなって家になっていたり、水筒を洗うたわしみたいな花が生える木が切られていたり、主に自然が楽しい。鮮やかな新緑が、空に向かって手を伸ばしていた。思い出の中を歩いているのに、新しい気持ちになった。

 

田んぼには水が張られていて、その中を鳥がゆっくり歩いていた。あめんぼがすいすい泳いで、田植えが待たれる。散歩コースに設定してもいいなと思う。

日影を歩けばまだ涼しく、気温は高めだが、夏はまだまだだと安心する。これから散歩をする日々になりそうだが、暑くなるのは勘弁だ……。そうはいっても季節は前に進むけど。

 

帰ってからの甘い物は身にしみた。1時間ほど、歩数にして8000歩ほどだが、とても疲れた。ただ歩いただけでなく、病院にも行ったからだとは思う。

 

今日の夜はよく眠れるといい。そして朝はすっきり起きれるといいな。疲れた日に限って眠れないという妙な体質なのであまり期待はしないでおこう。

 

色んなものを見て、楽しい日だった。

 

「ゴッホ」を調べた

ふと思い立って、ゴッホの生涯を調べてみた。

 

ja.wikipedia.org

 

ウィキペディアをざっと読んだだけだが、それでも胸がずんと重たくなった。

今日も調子の良い日で、午後にゲームをしている最中、ふと何もかもがどうでもいいという感覚に襲われた。歌をうたおうと思った、小説の続きを書こうと思った、でもそんなことどうでもいい。惰性で続けたゲームを終えて、SNSを流し見て、無力感にさいなまれて、検索欄に「ゴッホ」と打ち込んだ。

 

多分前にも調べたことがある。でも、思った以上に陰鬱な生涯だと思いながら読んだ。既に気持ちが暗いのにそういうものを読むのは、具合が悪いのに飲酒をするのに似ていた。

彼に金銭的な支援を続けていた弟が、後を追うように亡くなったというのは初めて聞いた気がする。

 

亡くなったのち有名になった芸術家といえば、個人的に浮かぶのはゴッホ宮沢賢治だ。宗教に傾倒したのも、父親と喧嘩をしたというのも、共通しているが、たまたまだろうか。

気になって両者の共通点を論じたものがないか調べてみたが、やはり少なからず出てきた。亡くなった歳も同じだという。

 

個人的には「糸杉」というワードないしモチーフが、二人のイメージを結びつけている。

学生時代、宮沢賢治の『春と修羅』が好きで、とりわけ「春と修羅 (mental sketch modified)」が好きだった。その詩に突然現れる"ZYPRESSEN"なる大文字アルファベット。何なのかと調べてみたら「糸杉」だった。

あまりなじみのない樹木の名前だが、聞き覚えがあるのはゴッホの絵のためだった。あの生き物のような、欲動を含んだ木の姿と、「春と修羅」のイメージとが重なって、詩の映像がくっきり心に刻まれた。

 

www.aozora.gr.jp

 

ゴッホの生涯を覗いてから彼の絵を見ると、生々しい人間の断面を見ているような不安感を覚える。そわそわしてしまう。彼の目にとって確からしく、しかし彼以外の目から見たらある種架空のものに見える絵画。作者の目に入りこんで見ようとすると、絵にひきずりこまれてしまいそうになる。かといって、他者の目として見ようとすると病理に感じて眼がぐるぐるする。

多分、純粋な絵画として見れていないから。作品そのものが人のようにみえる。思想や生き様の結実というか。

 

宮沢賢治の「春と修羅」は、むかし春が嫌いだった自分にとって、かなりピントの合う詩だった。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

まるで私の春の話を聞いているかのようだった。

 

ゴッホ宮沢賢治はなんとなく似通う。でも作品を見る私の感情は真逆だ。

だからなんだということもないが、そうはいってもいずれ、ゴッホを好きになる日がきそうだとも思う。

うつ病が治って、症状の生々しさも身体から去ったら、彼の絵を「作品」として楽しめるかもしれない。

 

www.youtube.com

 

(大好きな朗読。この作品もあって、私はこの詩に相当のめりこんだ。懐かしい)

 

「今週のお題」

5月も終わる。

生まれ月で、気候も良くて、長い休みもあるから5月は好きだ。あと1年会えないのか、と思うとすこしさみしい。来年の5月も、また好きな気持ちで迎えられるだろうか。

今日はずいぶん涼しくて、外に出ず動きもほぼない私は上着さえはおっていた。

 

初めて、今週のお題に挑戦してみる。

「人生で一番高い買い物」だが、私の場合ギターである。

15万円ほど。初めてのボーナスで、衝動的に買った。

 

その日は、好きなイラストレーターが死んでしまった日だった。普段は昼休みにスマホを見ないのだが、なんとはなしにラインを見た。好きなアーティストのブログに、彼女が死んでしまったとの報。

それでも午後の仕事は続く。呆然としながらも平然と、混乱しながらもいたって普通に仕事をして、多分このまま家に帰ったらダメになるから、近くの楽器屋に行った。

そこで見つけた、TAKAMINEの黒いギターに惚れてしまった。店員さんも親切で、いろいろお話できて気がまぎれた。でも「人生で一番高い買い物」だったからびびって、一応1日考えることにした。でも、9割は買うことを決めていた。

最近ギターを触れていない。ガシガシ弾いて、一番ギターの音にあうピックを破壊してしまい、手が遠のいている。

 

私にとって、色々とメモリアルな買い物。

明日は、久し振りにギターを弾いてみようかな。

転居

なんとはなしに、ブログを開いてみた。

最後の記事の更新は、もう100日以上前だった。

 

3ヶ月くらい前に、引っ越しをした。元々いた場所に帰った。

人と一緒に暮らすと、ブログを書く動機がなくなるなと思う。自分の言いたいことを話せる相手がいなくて、ブログを書いていたから。ネットでは人とからめないし、友達は忙しいから電話をしたら迷惑だろうと思っていたし。

 

うつ病は前よりもよくなった。

転居にともない病院が変わって、診断も双極性障害からうつ病に変わった。今の先生いわく、もともと気分に上下のあるタイプの人がうつ病になったのが私で、双極性障害とはいえないのでないかと。

それでも、気分の波をおさえる薬を服用して、なんとかやっている。

睡眠薬も前より自分に合っていて、昼寝をすることも少なくなった。

 

帰るか帰るまいか、ものすごく悩んだが、いま現在帰ってよかったと思う状態にある。(もちろん良いことばかりではなく、帰ったことによる悩みもまた存在するが)

生活リズムの安定と、食事をきっちりととることの大切さがよく分かった。分かったところで、それが可能な環境がなければ実現が難しいことも。

 

未来は不安だらけだから、考えようとする自分を遠ざけた。やりたいことも増えて、だらけることの価値も知って、今ここにある自分の声に従う練習をしている。書きたいと思ったら小説を書き、自然の様子を知りたくなったら外に出て、食べたいお菓子があったら薬局に行き、あまりためらわずに好きなだけ買う。

自分の中に入ってくる情報が増えた。そうすると、世間から切りはなされたような孤独感は薄まる。外側から、自分の形が分かっていく感覚。そも、他があるから己があるわけで。独居で向かい合う瞳といったら鏡の自分のそれになってしまうと、他と己が溶け合って深く沈んでいく。それが悪いとはいわないけど、濃密すぎるから、負の方向にも苦しみが強い。他者と生きることの辛さはあからさまで、独り生きることの辛さは内にこもって多様化している。ように思う。

 

なんでも、どれがいいとか決められない。好き嫌いも、自分と相手のコンディションで変わっていく。それでも私はナンセンスな表現が好きとか、水の溜まったものや流れるものに光がさすのが好きだとか、四季の移ろいが可視化される瞬間が好きだとか、一貫して大事にしたいものはある。自分にとってそれが当たり前すぎて、あまり「好き」という表明をしないできたなと思う。あまりにも自分すぎると、外に出ようとしないのかもしれない。

 

これから何があるんだろう。考えないようにしたって、背中にべったり貼りついている。とても苦しいけど、そろそろ許されてもいいなと思うし。今のうちに、自分の奴隷になる練習をしたい。

 

梅雨がきても、心やすく過ごせますように。

月齢の呪縛

突然だが、私は月の満ち欠けに影響を受ける。

 

相も変わらず精神病の治療中だが、一貫してよくならないのは睡眠だ。病気になる前から満月の前後は睡眠がとりにくかった。病気になった今、不眠に満月が拍車をかけている。一睡もできなかったことはこれまでなかったのだが、冬至近くの満月辺り、遂に一分たりとも眠れなかった。

 

満月だと意識しているから眠れない。のではない。眠れない日がことごとく満月なのだ。

思い返せば、中学生の頃、満月の辺りは勉強がはかどるなあと思っていた。大学の頃はもっと顕著で、新月から満月まではインプット、満月から下弦の月辺りまではアウトプットがはかどることがはっきりしていた。

ちょうど、大学の図書館に月と人体の影響を研究した本があった。

満月には出生率や犯罪率が高くなるともっともらしく書いてあり、興奮して読んだが、よくよく調べたら統計が恣意的で科学的には認められていない研究らしかった。

 

ネットで調べてみると、オカルトやスピリチュアル的な記事はたくさんヒットするものの、医学的科学的な記事はほぼない。

古代中国の医学書には、人体は月の影響を受けるという旨のことが書いてあるようだが、書かれた当時は現代みたいに夜も煌々と光が照っているわけじゃないのだから、現代人に当てはめて考えるのも難しいのではと思う。

 

というわけで、月齢の影響を受けて困っているんです、と訴える先が思い当たらない。

どうにも、精神病との親和性が高いように思えてならない。治療を阻害する症状なら、せめてきりわけて考えられるようになりたい。

だから、識者なり本なりにあたりたいのだが。まずは占い師に頼るのが手だろうか。

 

今こうやって吐き散らかしてるのだって、やっぱり月が太ってきたからだ。月は大好きだが同時に辛い。月が痩せれば、またブログを書く気力もなくなる。冬の月は高く昇る。空が凍えているから色も白く、光も突き刺してくるように鋭い。

だから一層、月に見られているような気だってしてくるのだ。

 

という呪縛のために、自分を「月齢に影響を受ける人」にしてしまっているのかもしれないね。

太陽の子供ぶって生きてみようかな。