明日の空は何色だ

作家を目指し幾星霜。物書きの雑記ブログ。

スーサイド

「生きているだけで偉い」という言葉に、納得できないでいる。

小学生の屁理屈のようだが、生きているだけというのは、今ここに存在する「1」の状態であるということなのだから、1+αの状態である「偉い」という言葉はなんだかしっくりこない。

ただ、随分人口に膾炙しているのは、それだけ求める人が多いということなのだろう。

実際、うつ病で1日の大半を生ける屍として過ごしている私も、生きているだけで偉いよと言われたら、ありがたきお言葉と思うだろう。

 

ついこの前、眠れない夜にふと「死んでしまおうか」と思った。

何か大きな悩みや不安があったわけではない。うつ病の症状希死念慮である。

自分の願望を果たすために、他の誰かが迷惑をするのは嫌なので、ひっそりと、人知れず遂行できる方法を考えてみた。

しかし、どれをとっても、何かしらの迷惑をかけてしまう。

電車に飛び込むは誰かをPTSDにしてしまうかもしれないし、遺族は莫大なお金を払わなければならないと聞いたことがある。飛び降りは、下にいる人を巻き込んでしまう危険がある。家で実行すればたちまち事故物件だし、そもそも自ら死んだ人を悼む立場に立つと、関係性によっては一生拭えないわだかまりを抱えることになるだろう。

 

自殺は周囲にとってマイナスの価値を与えてしまう行為なのかもしれない、と布団の中で気づいた。自分に生きている価値はない、と思うこともあるが、そう考えると生きている方がむしろ上等だ。

 

つまり、生きているだけ=自殺を選ばない時点で、自殺によるマイナス価値を生まない存在であり、そう考えると「生きているだけで偉い」という価値感は成り立つ。

すると、希死念慮という症状に度々苛まれるうつ病患者は、死なないようにどうにかするのが使命ということになるだろう。

結果的に自殺を選んだ人を批難する意図はない。別に推奨する気もないし、止める気もない。死は誰にでも、等しくやってくる結末だ。それを自ら選び取るかそうでないか、という違いでしかない。

だが、「生きている側」に視点をおいてみると、「自殺しないだけで、誰かの迷惑にならずに済む」と考えることもできる、と私は思う。

 

病気が治るまで、これでなんとか乗り切ろう。