「鬱状態」の診断から、そろそろ2ヶ月が経つ。
一向によくならず、夏をゴミ箱に捨てているような気がする。
それでも蝉が鳴くと、この町にもきちんと夏が来るのだと胸をなでおろす。
コロナ禍の始まりと共にこの町に来たから、せっかくの大きなお祭りも夏の匂いも知らない。
知っているのは、窓から見える木に花が咲くことくらいだった。
夏の風にはらはらと散る花の存在を、初めて知った。
仕事を休んで、ずっと家にいる。
散歩でも行けばいいのに、どうしても扉を開けられない。
日中は心臓が嫌な音で鳴る。抗っても無駄だと覚っているのか、じっと耐える。耳には高校野球の実況が流れ込んでいる。どこまでも自分の嫌なところを追いかけたり、周囲の人間の嫌なところを追いかけたりして、結局最後は自分を責めている。
今日『スーサイドガール』という漫画で
それ(自殺のこと) 他殺じゃねェか!!!!
という表現を見た。
自分で死のうとは思わない。去年才能ある人が自分で死んで、呆然とした。
その人の絵を見て、心から感嘆した。その人の絵にお金を払った。でも逝ってしまった。自らの手で。
私の心が痛んだのは、その人に才能があったからだろうか。
才能が無かったら、私の心は痛まない?
才能の無い人の死はどうでもいいの?
聖人を気取ってそう問い詰めている。
誰の死だって悲しい。でも誰が死のうがどうでもいい。
私が死のうが、そう多くの人間の生活は揺らがない。
でも確かに、人生に大きな影を落としてしまうだろうという人がいる。
だから何だという話。
私が死ぬことで悲しむ人がいようが、いまいが、私の生死をジャッジする定規にはならない。
でも人は人の中で賢く生きる生き物だから、そういうことを考えてしまう。
人間だから仕方ない。
生きづらくていつもいつも鬱状態で生活をストップさせてしまうのも、人より繊細なのも、人より創造性に富むのも、私の先祖がそれを選択し続けたから。
私の中に残ってしまった。
大学の時、私はいつかきっと自死を選んでしまうという危機感から、休学をとった。
その危ぶみは正しかったと思う。
休学期間に身につけた文章の書き方、休学をこえて書き上げた物語がなければ、きっともっとダメになっていた。
こんな風に生まれたことを、嘆く人がいようとも。
私は私の遺伝子が細胞をコピーし続ける限り、この心身で生きていかなくちゃいけない。
日中はだんまりな食欲が歯磨きのあとに騒ぎ出して辛い。たとえはやすぎる朝になっても、明日も野球を見て、明日は電車に乗る。
人生には諦観が肝要。